もらうということ
師匠にコジキといわれ
ほんまやなとは一度思ったんですけど
なんか完璧には腑に落ちずに
ぼんやり考えていたことを書きます
まぁ、もらいものや拾いものでも
キレイであれば、良いのかも知れないし
もらいものだと言わなければ、良いのかも知れない
ただそれがもらいもの(拾いもの)と分かってしまうと「アララ」と思う人がいる
結構な数いる
そういう人の方が多いだろう
というのは、分かった
ただそれでも
うっせーと思って
もらいものを使い続けてもいいし
そこは改めるべきだなと
新しく買ってもいい
(当たり前のことをすげえ書いてるな)
で、
なんか腑に落ちなかったのは
もらうということって
結構自分の中で
良いと思っていたからなのです
さっき考えてて2つの良い点を言語化出来たので
今から思い出しますね
①もらうっていうことは良いことだから
、、、いや、それの理由を書けということなんですけど
補足しますね、なんか、すみませんね
ここ半年くらいの間に感じた
ケッコー新鮮な感覚なんですけど
もらう人(助けて欲しい)が不足している
このブログでも以前書いたかも知れませんが
もうねこの世のすべての人が毎日生活しているんですよ
生活できてるんですね
2種類あって
☆・・・あげたい人と
●・・・欲しい人
もろもろが溢れた時代なので
欲しい人ってあんまいなかったりするんですよ
急に来た人☆に「何か手伝いますよ」って言われても別に足りてるんですよね
ほとんどの人は
手伝ってもらわなくて大丈夫ですなんですよ
わての中ではね、
今そんな世の中
何かしてもらうより
してあげたいっていう世の中なんじゃだろうか
足りないのは足りてない人●で
欲しい人●なんですよ
だから何かしたいときは、
☆「時間あるので手伝いますよ」ではなく
●「暇で困ってるんです、助けて下さい」の方がいいんですよ
なぜかというと
人って結局誰かの役に立つことしたいんですよ
欲しい人●にあげるとその人●の役に立てるじゃないですか
そうすると嬉しいんですよね
道で喉が乾いて倒れている人がいて
その人に水をあげて喜んでくれたら
嬉しいでしょう
(あっそれってアンパンマンやん)
助けて欲しい●という声をあげるということは
助けた人の嬉しい気持ちを生むチャンスを、種をまくことなので
というか
助けてもらうこと=相手を喜ばせることになる
コジキを正当化するわけじゃないけど
逆もあるよと
コジキして嫌われるんじゃなくて
好かれるみたいな
こともあり得る時代だよ
一概には言えないよと
ここで終わりなんで
この下は、超絶駄文ですし、
意味わかんないかも知れないです
(上も駄文やで)
もう使わないから脚立あげるとお客さんに言われて
で、それ翌年そのお客さんのおうち行ったときに
そのもらった脚立使って
「この脚立のおかげで大分稼がせてもらいました」と言えば、はい、10嬉しい〜、喜んでもらえるという仕組みです
ほんでねほんでね
もう10年以上前だと思うんですけど
自己啓発系の本で「賢者の書」
っていうのもらって
そこにこんな話があったんです
砂漠に2つオアシスがあり
東のオアシスには自分を喜ばせたい人●が住んでいて
西のオアシスには他人を喜ばせたい人☆が住んでいる
どちらが裕福かというと西だ☆
つまり西のしてあげたい人☆が裕福だって話だったんですけど
わてが言ってんのは
その一歩先の
何も持ってない助けてもらう人●
助けてくれる人☆を
喜ばせているっていう
これが2.0か
コジキ2.0
それになりたい
うちの奥さんなんかマッサージしてもらうばっかりだけど
すげえ気持ち良さそうにしてくれるから
こっちまで嬉しくなる
あいつは才能あるよ
コジキ2.0の
なんかまじで何言ってるか分からない内容になりました
そして序盤に2つの理由とか書いてたのに
②が出てこずすみません
溶けました
すみませんでした
参考文献「嫌われる勇気」