脱サラして植木屋になるまでの道のり

周囲の反対に心折られそうになりながらも、サラリーマンを辞め(2019年3月31日済)植木屋になります。リアルタイムヒストリー。Twitter https://twitter.com/iaity?s=17

プロフィール

プロフィールというか、生い立ちですね。

 

 

恥ずかしながら3900グラムオーバーの大きめの赤ちゃんでした。

恥ずかしながら母の実家の東京(神田?)で生まれました。

恥ずかしながら4人兄弟(男男女女)の1番上です。

 

※以下、恥ずかしながら、略。

 

高校入学までは、親の仕事の都合で国内の各地を転々としていました。

 

幼稚園を二つ、小学校三つ、中学校二つ、高校と大学は一つです。

 

幼稚園の誕生日会では、バイク屋さんになると言いました。

何か言わないといけなくて、バイクがかっこよいと思って言ったんだと思います。

たぶん他にもバイク屋さんと言った子供はたくさんいたと思います。

一人での砂遊びが好きだったみたいです。

うっすら覚えてます。

星野源ちゃんの「あなをほる」♪好きです。

 

運動出来る気がしてました。

たぶん4月生まれだったからです。

これは最近まで勘違いしてました。

誰かもっと早く教えてよ。

でも、木登りは多分上手です。

小さくて軽いし。

 

164.5cm 58kg

 

幼稚園二つ(名古屋と相模原)ですけど、あまり転園が嫌だった記憶はありません。

みんな同じ小学校行く話をしてて、へーそうなんだと思っていたくらいです。

嫌とかでないけど、せつないですね。

引っ越しってせつないんですね。

童謡?の「さっちゃん」♪も非常にせつない。

 

幼稚園の時の友達で連絡取る人はいません。

 

小学校3年生から野球を始めて、野球選手になりたいと言っていました。

野球を始めたのは、周りの友だちがやっていて、ドッヂボール上手くなるよと、そそのかされたからと記憶しています。

お父さんお母さんいろいろありがとうございました。

高学年ではピッチャーしたり、なんかちゃんとボールとれて、投げれたから上手いんだと思ってました。

でもなんか友だちと違うチームでした。

なんでやねん。

住んでる場所とかなのかな。

あまり怖くない監督のチームでした。

友だちのは怖い監督のチームだったと思います。

 

いや、生い立ち書くの初ですけど。

いろいろおもうところがありますね。

監督、父兄の皆さん、ありがとうございました。 

 

弟とは、よくけんかしました。

二つ違いなので、いじめたりもしたりしたと思います。

友だちと野球してて、弟はまだ上手く出来ないから仲間外れにしたことがありまして(自分では覚えてないんですけど)、弟は一人で壁あてして練習してた。たぶん仲間に入れてもらうために。と母から聞きました。大人になってから。ごめん。でも、子供は残酷で理にかなってますね。

 

その他にもあまり思い出したくない意地悪なこともしたし、大半は忘れてるだろうから膨大ないじわるが眠ってることでしょう。その時はごめんなさい。

 

小学校は三つ行かして頂いたんですけど(相模原と高槻と鹿児島)、転校は嫌でしたね。

転校するっていうもの嫌だし、新しい学校も嫌ですし。

転校するけどまた帰ってくるっていう、悲しい嘘をついたこともありました。

引っ越しの時は見送りに来てくれた友達が、私達家族を乗せた車を見送ってくれて涙ぐんだりしました。

父を嫌になったのは、そのせいもあったかも知れません。(子供の頃は嫌いでした)

でも、逆の立場になってみるとオヤジもつらかったかも知れないですね。

 

小学校のころはいろいろしてたと思います。

虫採ったり、家族と海行ったり、ゲームしたり、遊びを考えたり、なんか思いつく限りの遊びをしていたと思います。友達とより兄弟がと遊んでいたのかな。創造的な遊びをしていたのはほぼ兄弟とです。

友達を仕切ったりは全然出来なかったから。

今も出来ませんが。

 

高学年になるに連れて野球というものが、余暇の時間の大半をしめるようになってきたんだと思います。

 

 

中学校も引き続き野球選手になりたかったんですかね。あまりおぼえてないんですけど。

 

野球が中心の生活だったと記憶してます。

土日もそうだし、平日も部活だし。

 

たぶんこの頃にはそんなに野球好きじゃなくなってたかも知れないですね。

目悪かったし、中学校三年くらいになるとあんまり見えてなかった。

ミスしたらどうしようって思うようになっていたし。

そういえば、中学校で引っ越す前は硬式野球で引っ越してからは軟式野球になったんですけど。

軽~くが投げられなくて、思いっきり投げたら狙ったところに行くんですけど、軽~くだと変なとこ行っちゃってたんです。

 

今思ったら、イップスという病気だったかも知れないです。

イップス・・・ビビってボール投げれなくなる心の病気

ちなみに高校では思いっきりこの病気にかかります。

 

なんで辞めなかったんでしょうね。

この時から辞められない性格なんですね。

続けた方が褒められるけど、何でなんですかね。

嫌なこと続けたら偉いのかよ。

生い立ちに戻ります。

 

中学校は二つ(鹿児島と愛媛)なんですけど、もう小学校の最後の方からか、女子からかわいいと言われるようになっていたんです。これは今でも言われるというか、最近は乙女とか言われることがあります。

なんでなんですかね、背も小さいし、オラオラ出来なかったからですかね。

植木屋としてやっていくには、ゴリゴリ系の方がやりやすそうですけと、私にはそのような振る舞いは決して出来ません。

なめられやすいです。ヘラヘラしてるし。

そういう要素が出来てきたのか小学校高学年から中学校なのかも知れません。

 

いじめのようなものにも会いました。

引っ越したばっかりの頃に、偽ラブレターもらったりとか、掃除箱に閉じ込められたとか。そんなものは転校生なら誰でもやられているとは思うのですが、でもいじめられてることに気付かないふりをしていたらそのうちなくなりました。いじめてる方はいじめと思ってない程度でしょう。

 

グループでいうと、どちらかと言うといけてるグループだったと思っているのですが、どこにも属してなかったのかも知れないですね。いけてないグループの方が居心地は良かったですけど。

 

そういえば、中学校三年で引っ越しですぐ修学旅行だったんですよ。誰か大久保を班に入れてやってくれって先生が言ってくれて。

ジャイアンスネ夫がいる班になりました。

後のことは覚えてません。

 

そういえば、小学校5年の途中で鹿児島に引っ越したとき、もうあんまり、休み時間に校庭で遊ばなくなってたんですね。

それまでは、ドッヂボールとかして結構すぐ仲良くなれてたのに、それがなくなっちゃいました。その時点で野球辞めるべきやった。

 

高槻(大阪)から鹿児島への引っ越しで、方言が全く違うんですけど、私すぐ鹿児島弁(もどき)を話し出したらしいんです。

それを先生に褒められたような覚えがあります。順応性が高いかなんかで、三者面談かなんかで。

 

先生は本当は大阪弁でしゃべれよ、つまらんなー。と思っていたかも知れません。

変な先生でしたから。

自分の考えを通せる人だったと思います。

ウインドサーフィンをしていて、KinKi Kidsの「ジェットコースターロマンス」♪の歌詞がめちゃくちゃ良いとか言って聞かせたり、全員に何歳で結婚したいか宣言させたり、全員の手相見たり(私は将来プータローになると言われました。あなどれない)

 

ちなみにどこに行っても、外では土地の方言。家では標準語を話していました。

だから、友達を家に連れてきて、話をお母さんに聞かれるの嫌でした。家としゃべり方違うし。

 

中学校はどうやって仲良くなったのかな。

やっぱり野球かな。あとは、なんで仲良くなったか分からない友達もいますね。

塾も行きましたね。

中三の時、彼女も出来ました。

ケータイ持つか持たないかの瀬戸際で、お母さんの携帯から彼女にメールとかしてたかも知れない。

 

同じ塾だったんですけど、あっちが来ると赤面してました。すっごく顔が熱ーくなってた。めちゃくちゃかわいいですね。

 

あと、反抗期でしたね。

家族に心を閉ざしていたと記憶してます。

「いる」とか「いい」とかしか言ってなかったんじゃないかな。

唯一1番下の妹が11歳年が離れてるんで、中三の時3歳くらいで、そこにだけ心を開いて話してました。(キモいな)

 

中学校なんとかやりきりまして。

受験。

5校中3番目の学力の高校に入学。

野球部に入ります。

もうあんまり何も考えてないですね。

そういうもんだと思ってました。

夢とかあったのかな。

 

また野球中心の生活。

コンタクトにして、ボール見えるようになったんですが、ダメでした。

ボール投げられなくなったし。

 

入学当初は、眉毛が細すぎて悪そうだと恐れられていたみたいですけど、すぐにバレて。普通の少し変わった人として過ごしてました。

 

同じクラスで、同じ野球部で、大人しいやつがいたんですけど、実はしゃべると面白いみたいな奴で、爪を隠した鷹みたいな奴がいて、普段静かなんで、面白いこと言ったときの爆発力がすごくて、こんなポジションもあるんやと嫉妬しました。

 

高校時代にゴーイングステディとマキシマムザホルモンを知りました。

どちらもウザモヤシというあだ名のちょっとぶっ飛んだ野球部の先輩に教えてもらいました。

 

 体育大会とか、夏の野球の大会とか、楽しいこともあったけど、これくらいからひねくれだしたといいますか、ちょっと外れて見てたというか、変な言い方するとおれはこんなもんじゃないっていうんですかね。

皆と同じが嫌になったのかも知れないです。

 

大学受験は、国公立をすぐに捨てて、私立文系の3教科に絞り、ウザモヤシと同じ大阪の大学に行きました。

 

芸大にも受かっていたんですけど、父の進めに逆らわず、関西大学マンモス校)に進学しました。

家を出れたらなんでも良かったのかも知れません。

 

野球には三年生の最後の夏の大会で、9回ツーアウトランナーなしの場面の代打で、見事見逃し三振をぶちかましたところで終止符を打ち、大学では演劇部に入部しました。

 

変わったことをして、経験値をためてレベルアップしたいと、若造なりに考えた結果、変な人が集まっていそうな劇団に所属したいと考えたのです。

 

この采配がピタリとはまり、この私が1番まともっていうくらいおかしな個性的な仲間たちと、これ以上ないくらい大学生らしい(人生の役に立つことのない時間を過ごすこと)生活を送りました。

 

全くお金にならないことの為に(演劇)、高い授業料を払っている大学の授業をサボってまで、時間を費やし。

安い酒を飲みながらとても大切な話をして、酔っぱらって次の日にすべてを忘れ、毎日爆笑し、自信に満ちあふれ、自信をなくし、変な髪型にしたり、彼女が出来たり(今の奥さん)とてもとても無駄に楽しい時間を過ごしたのでした。

 

この時の夢は劇団作りたいとか、何かどえらいことをしたい。とかです。良い感じ。

 

周囲を納得させることが出来ず、取りあえず始めた就活で、学生時代に過ごした無駄な時間を「こんな充実した学生生活を送りましたとか、この経験を御社でこういかしたい」とか慣れない嘘を付いて全然受かりませんでした。

 

今思えば、「無駄な時間を過ごしました。正直まだ、そんなことをしていたいんですけど、そういうわけにも行かないので、働かせて下さい」と言った方が受かったかも。

 

そして、父の紹介で受けた物流会社に入社。

一年間現場で同期123人(全員男子)と楽しい現場研修を終え、東京に配属されました。

 

毎晩夜遅くまで働き、消耗。

この頃やりたかった仕事が、革職人。靴磨(修理)屋さん。果物屋さん。です。

好きなもの・良いと思うものを、仕事にしたいというような考えになってますね。

いいぞ。

 

革職人は、何回か通ったお店に行って、頼んだんですけど、断られました。そのお店が良かったので、だんだん熱が冷めていきました。

 

果物屋さんは、沖縄で食べたマンゴーが美味しかったからなんですけど、沖縄のマンゴー農園手伝いに行って、楽しかったですけど、そこまでで終了でした。

 

そして、結婚。

一年間東京で一緒に暮らしました。

 

そして一年後、いつか奥さんの実家のある大阪に転勤出来たら良いなと思っていたら、あっさり転勤が決まりました。

 

大阪に来れたら後は、転職活動してやろうと思っていたんです。

実家も近いし、助けてもらえるやろうと考えていたんです。ところがどっこい猛反対をくらいます。

ひょんなことから(植木屋のブログとか)植木屋に興味を持ち、これやりたいと思ったんです。

 

現在も奥さん、奥さんの実家、うちの実家、その他もろもろから反対されています。

 

またいつもの現実逃避だと奥さんは思っているようですが、今回は長いですね。

 

2015年からなので。

 

何で植木屋になりたいとか書いてたらいつまでも終わらないので、そこら辺は本編で書いてくれるでしょう。

 

生い立ち終わり。

 

 

 

 

 

さてさて、陽介くんは植木屋になれるのでしょうか。 お楽しみに。


このブログは主に通勤、帰宅電車の中で書かれています。